“生きがい”がない。
なんとなく毎日を過ごしている。
こんなんでいいのかなぁ。
いつまでも主婦をしていて私に成長ってあるのかしら。
こんなこと考えて日々の生活を送っている方はいませんか。
なぜ、私たちは“生きがいがない”と感じたり、“生きがいが欲しい”と思うのでしょうか。
私がヨルダンで2年間ボランティアをている時、
始めはよく、
「ヨルダン人たちは、なにを“生きがい”にしているのだろう」
と考えていました。
土日は毎週家族と会って、特に出かけることもなく、
同じ人がお客さんとしてきて、
毎回同じような冗談を言って、
口癖は、「大変。疲れた。」

「旅行に行くのよ。」
という人も、旅行に行く場所は、“決まってメッカ巡礼”
なんなら毎年の旅行は毎年メッカ。
(ヨルダンは国民の90%以上がイスラム教徒。“メッカ”とはイスラム教徒の聖地。そのメッカに訪れ巡礼することは、六信五行の中に入っています。)
読書をしていると思えば、これまた“決まってコーラン”
(コーランとは、イスラム教徒の聖典です。)
彼らはいったい何を“生きがい”にして、何を“楽しみ”にして、生きているんだろう。
最初の1年は、よく、そのことを考えていました。
しかし、彼らと接していくうちに少しずつ分かってくるようになったことがありました。それと同時に、私たち日本人の、“日本人としての生きがい”についても考えるようになりました。
彼らの“生きがい”とは
「毎日の生活を、正しく生きること」
なのではないかと。
困っている人がいたら助け、神の教えを請い、神を恐れ、敬い、“毎日を正しく生きる”
彼らの神の教えの中に、
家族が大切だと説いているものがあり、
困っている人は助けなさいと説いているものがあり、
大自然の災害も、いいことにも悪いことにも納得して、生きていきなさい。
そう説いているものがあります。
だから、“正しく生きよう”とするわけですね。
ヨルダンは、難民大国です。

シリア難民、イラク難民、パレスチナ難民。
国民の半数以上は難民で構成されています。
命からがら逃げてきた人もいるため、貧富の差がかなりあります。
“うらやましい”“何で自分たちだけ”そんな感情はないのかな。
そう思ったこともありますが、この“他人を羨んだり妬んだり”することは、宗教上よくないこととされているので、彼らはしません。(いや、しないようにしているのかもしれない。)

本題に戻ります。
このような彼らの“生きがい”に触れていくうちに、
“日本人として、どうあるべきか”
ということについて考えるようになりました。
結論からいいます。
結論:他人を助けることで、少しでも社会に貢献する。
他の人を助けることで、少しでも社会に貢献する。
すでに先進国であり、色々な不備はあるものの、制度もある程度整っている中で生活している私たち。
こんな私たちが“生きがい”のある生活をしていくには、
困っている人に、手を差し伸べることです。
困っているものに、目をつぶらないことです。
なにも、今紛争が起きている場所にいって、紛争を解決してこい、レポートしてこい、というわけではありません。
誰にでもできることです。
“誰かを助けること”
日々の生活に、取り入れてみませんか。
近所にいるお年寄りに、一言声をかけて回る。
子どもが学校に行くときに、外にでて“いってらっしゃい”と声をかけながら、周囲の子どもにも危険が及ぶことがないか、目を配る。
困っている人がいたら、必ず助けるのよと、子どもに言い聞かせる。
家族で困っている人がいたら、手を貸す。
小さいことですが、“誰かを助けること”が、今の日本には“生きがいとなり得ること”だと私は感じます。
それともう1つ。
“誰かを応援すること”
クラウドファウンディングで、“誰かを助けようとしている人を、応援する”
スポーツ選手を応援する。
やってみない?と言われたことに賛同する。
新しいことをし始めた友達を応援する。
自分と周囲を比べて嘆くのではなくって、
なんで自分のことを分かってくれないのかと悲しむのではなくって、
自分が誰かの役にたってみませんか。
それを小さな生きがいにしていきませんか。
そうすると、主体的に動くあなたの未来は、“生きがい”と“愛”に満ちたものになるのかもしれません。
ワールドビジョンジャパン
こんなものも、いいかもしれませんね。
最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。


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